昭和30年代。
まだ、僕が小学校に行くか、行かないかの頃のこと。
遠い夏の思い出をたどってみる。
横浜の下町の思い出と一緒に。
家は、路地に面していた。
路地は、アスファルトではなく土で、
木の塀の下に、母がミョウガとシソを零細に植えていた。
それは、時々、みそ汁の具として登場した。
夏休みが始まると、朝の
ラジオ体操が始まった。
行くと一回分のスタンプを押してもらえる。
休むと、その日はスタンプを押してもらえないので、空欄になる。
確か、皆勤すると何かもらえたような気がする。
そこの記憶があいまいだが、
とにかく、首からそのスタンプカードをぶらさげて、
家から50メートルくらいの広場に走っていくのであった。
母か、父か、が「いってらっしゃい」「いってきな」といつも声をかけてくれる。
行かないと、親に申し訳ないという気持ちもあったかもしれない。
広場には1本の大きな楠の木があり、
その前で、20人くらいの子供達が、15分ほど、ラジオにあわせて、
時計仕掛けの人形のように、体を動かす。
爽快というより、やたらと眠く、また、眠い目には、夏の太陽がやたらと眩しかった。
家に帰ると、母が朝食の準備をしている。
父は、新聞を悠然と広げている。
昔の父親というのは、食事時に、なんにもしなかった。
ほんとに、なんにも。
箸も皿も出さず、卵も割らず、ちゃぶ台の特等席に鎮座している。
なんにもしないから、エラいのだった。
俺が家族を支えているという存在感が、子供にも伝わってきて、
自然に母の手伝いをしたものだった。
「ねぇ、お豆腐、買ってきてくれる」と母が言う。
父は、毎朝、豆腐か、納豆を食べる人だった。
豆腐は、家を出て、アスファルトで舗装された道を渡って、
すぐの豆腐やに買いに行く。
カネのボールを渡されて、「一丁でいいからね」とか「今日は、ニ丁ね」とか、
言われたことを、反芻しながら、道を渡る。
豆腐は一丁が、10円か、15円だったような気がする。
そのお金を、ぎゅっと握りしめて、行く。
あの頃の少年には、「小銭」はとても、とても、大切なものだった。
豆腐やは、もう、朝の作業がすべて終わっていて、
おやじさんも、ゴム長姿で、にこやかに、椅子に座っている。
「ほい、おはよう、今日は、何丁?」
などといいながら、豆腐の浮いた「水槽」(というかどうかわからないが)から、
豆腐を左手ですくい出し、大きな包丁でざっくりと、切ってくれる。
さらに、それをボールに入れ、水槽の水を少し注いでくれる。
家までのわずかな距離を、ボールを両手で抱えながら、
僕は慎重に歩く。
白く柔らかな固体は、命あるもののように揺らぎながら、
その冷たさをボールを通して伝えた。
豆腐やさんには、さまざまな季節にお使いに行ったはずなのだが、
なぜか、夏の記憶に結びつけられている。
その理由は、あのボールを通して感じられた豆腐の冷たさゆえかもしれない。
本牧通りの、盛夏の緑
- 2008/07/31(木) 06:16:29|
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昭和50、いや60年代でも、
埼玉では同じような光景が見られましたよ。
豆腐屋さんに走った記憶は自分にもあります。
今となっては夢のような話ですが…
(特にオフィスなんて、近代化の権化みたいなものですね)
いやはや、
お懐かしいです。
- 2008/08/01(金) 01:56:02 |
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- ダバ #-
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街の豆腐やさんは、どこに行ったのでしょうか。
本牧に、昔あった豆腐屋さんは、
ぜんぶ、つぶれてしまいました。
今、知っているのは、1軒だけ。
銭湯といっしょで、てまひまがかかるわりに、
もうからないんでしょうね。
跡継ぎもいないだろうし。
みんな、スーパーとコンビニで豆腐を買うようになるのでしょう。
味気ない時代になりましたね。
なんだか。
- 2008/08/05(火) 11:57:48 |
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- KUROちゃん #-
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