ひどく更新をさぼってしまった。
仕事に、私生活に、さまざまなことがあり、
「書く」気力が低下してしまった。
楽しいことも、それなりにあり、
とても気分は充実していたのだが。
あるパーティがあり、会場のモニターに映像を映すことになった。
横浜の街の風景を音楽にシンクロさせて映す。
その風景は、今まで、僕が撮りためていたもの、
プラス、新たに撮影したもの。
その際、夜景の写真、かつ、本牧の写真がないことに気づいて
かなりの枚数を撮った。
ほとんどは、お店の写真、
名づけて、ザ・本牧ナイトスポット。
本牧通りを根岸から石川町方面へ、
そして、小港の交差点を右折する。
少し行くと、ワシン坂に曲がる道があるが、その手前に「アロハカフェ」がある。
本牧が
米軍に接収されていた時代のスポットで、
1972年、開店した(らしい)。
カフェバーというスタイルのルーツで、
この店のイミテーションが80年代、六本木、青山、表参道あたりに出現して、
大ブームを起こした。
その頃、僕は高校生で、たまに、本牧をぶらついていたが、
夜ともなると、通りには、ネオンがきらめき、米兵が多数たむろした。
店の前に、屈強な奴らが、キリンの瓶をラッパ飲みしながら、
激しくこう笑していたりする。
ベトナム戦争は泥沼化し、夜はすさんで荒れていた。
アメリカの街だった本牧は、東京なんかより、ベトナムとつながっていたのだった。
まだ、少年でなんの堕落も知らない僕、もしくは僕らは、
そんな世界に入ることはとてもとても、できなかった。
恐くって怖くって、憧れてはいたのだが、
異次元の空間と時間だったのだ。
アロハカフェの道の向こうは、
米軍のベースで、居住地区が広がっていた。
金網のフェンスだけが、こちら側とあちら側を隔てていた。
ため息が出るほど、本牧エリアは魅力的で刺激的で、
40年近くも前なのに、目を閉じてもその光景が蘇ってくる。
米軍が撤退しても、アロハカフェはあり、
20代だった僕らは、何度も、遊びに行った。
ベースはなくなったが、夜の闇に浮かび上がるアロハカフェのネオンサインは、
往時の本牧を彷彿とさせる。
若い米兵と日本人の娘の恋。黒人兵と白人兵の喧嘩。本当に発砲するジープのMP。
アロハカフェは、タイムマシーンの入り口のようだ。
パーティらしく店内からは楽しそうな笑い声が溢れていた
おすすめ!横浜の時間を歩ける本。「横浜タイムトリップ・ガイド」
- 2008/10/05(日) 00:08:17|
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秋立つと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる
すっかり秋になりましたね。
もちろん、夏の名残はありますが。
今朝、バス停に立っていたら日射しは強かったのですが、
風が肌に少し、冷たくて、ああ、秋なんだな、と思いました。
そこで、頭に浮かんだのが、上記の短歌。
藤原敏行の作。
平安京の時代といえば、クーラーもありませんから(当たり前ですが)、
夏はどんなふうに過ごしていたのでしょう。
汗をかいてもシャワーもありませんし、
氷で頭を冷やすなんてこともないし、
早く夏が過ぎてくれとばかり思っていたのではないでしょうか。
暑さ寒さから人間を遠ざけて、快適にするのが、
現代社会のテクノロジーですが、
当時の人は、暑さ寒さに裸で接しているようなものだったのでしょう。
まったくの無防備ですね、
温度や風や雨といった自然現象に。
さらに、日本には四季があるから、自然の変化推移には、本当に鋭敏だったと
思います。
かすかな風にも心のアンテナが繊細に反応し、
かすかな感情を呼び起こす。
よくいわれることですが、雨や風などを表現する言語は、世界のどの民族よりも豊富らしいですね、わたしたち日本人は。
白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん
なんていう歌も、
ネットを探していたら
藤原敏行作でありました。
京の都で詠んだ歌でしょうか、
それともちょっと郊外、たとえば、鞍馬とかに出かけた時に詠んだのでしょうか。
繊細な感覚の歌ですね、こちらも。
現代人は、ずいぶん自然に対して鈍感になりました。
感覚、感性という意味では、昔の人の方が断然すぐれていたでしょう。
でも、クーラーのない夏はとても耐えられないから、
多少、鈍感でも、ま、いいかという気もしますが。
夏から秋へ向かう空
- 2008/09/10(水) 23:19:31|
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麦田のトンネルを抜けると本牧が始まる
夏も終わろうとしている。
夏に生まれたせいか、
小さい時の夏の思い出が多いのか、
さびしい。
本牧通りをクルマに乗りながら、写真を撮ってみた。
夏の道の風景。
元町方面から麦田トンネルへ。
本牧を通って、自宅へ。
夏の光のなかに、秋の訪れを感じる。
マイカル本牧の一角にある緑の道
自宅界隈につく頃には、夕暮れが迫っていた
- 2008/08/27(水) 08:04:07|
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根岸の海を埋め立て、
子供達から海遊びの楽しみを剥奪した代償に、
昭和40年(1965)に大きな
プールができた。
それが、市を中心とした官民一体による高度経済成長期の「計画」であった。
京浜東北根岸線の根岸駅の近くに、
「マンモス
プール」という
プールができた。
マンモスというくらいで、本当に、おそろしくでかい
プールというふれこみだった。
流れる
プールがあるとか(その頃、日本には流れる
プールはなかった)、すごい噴水があるとか、レース用の100メートルもあるとか、とかとか。
噂を発端に、想像力はいやがおうにもかき立てられ、夢のような何かを思い描いた。
僕は、当時、その
プールから一番近い小学校に通っていた。
そして、
プール開きのその夏、僕らの小学校の生徒達は、オープニングセレモニーに招待されたのだった。
その日は、曇天だった。夏といっても、当然、夏休み前だから、6月なかばくらいだったのだろうか。寒かった。まず、その印象が残っている。
式の途中から、小雨が降ったようにも記憶している。あいまいではあるが。
プールは確かに、でかかった。
さらに、水は流れていた。
大きな円形の
プールがひとつ、サブ
プールがひとつ、子供用がひとつ。
円形
プールがとにかく大きく、外側の円形部分に浅い
プールがあり、内側の円形部分に深い
プールがあった。そして、円の中心部分は「陸地」になっていた。
なかのいいA君と、式のおじさん達が挨拶するのを小耳に、話していた。
「世界一大きいって聞いていたんだけどなー」
と彼は、大いに落胆したように言った。
「りっぱに、おおきいいじゃん」
「なんか、東洋一らしいよ」
「いちばんだからいいじゃん」
「なんか、調子くるーな、東洋一じゃ」
正直言うと、小さかった僕は、「トーヨーイチ」という言葉がよくわからなかった。
「トーヨー」が何を指すかが、よくわからなかったのだ。
でも、「世界一」よりは、スケールダウンしていることは感覚的に分かった。
それは、ひょっとすると、夢の翼を精一杯広げて思い描いていた「想像上の
プール」が、
おとしめられたようにA君には感じられたかもしれない。
その気持ちも、ぎりぎり、分かるような気がした。
式典はやがてクライマックスになり、
僕らひとりひとりが手に握っていた風船を、
号令のもと、一斉に手放した。
色とりどりの風船が空に舞い上がり、
バラ色の未来を暗示してるかのように飛んでいった。
どこかの学校のブラスバンドが、高らかに曲を鳴り響かせるなか、
僕らは、風船の行方を静かに見ていた。
今にも泣き出しそうな空にあがってゆく数々の色たち。
あれから、40年がたって、根岸の「マンモス
プール」は、まだまだ健在だ。
さすがに、もう「マンモス
プール」とは言わなくなり、
子供達は「根岸(市民)
プール」と言っている。
冬場にはテニススクールなども開かれ、市民の施設としてとても愛されている。
それから、本当に本当にマンモス
プールにはよく行った。
ひと夏に20回以上行った年もあるはずだ。
初めて泳ぎを覚えたのも、初めて女の子とホットドッグを食べたのも、
このマンモスでだった。
8月の20日過ぎになると、
プールの水面をたくさんの赤とんぼが飛ぶようになる。
日射しはまだ、じりじりとしているのだが、もう、すぐそこに秋が近づいてきているのが
わかり、なんだかしんみりとする。
振り返れば、そのたびに、子供の僕は少年に、
少年の僕は青年になっていったように思う。
本牧市民プールの水面、ゆらゆらと光る
- 2008/08/17(日) 17:05:08|
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家の近くには、運河があった。
夏には、水面がきらきらと乱反射し、船が通るとその反射はさらに増した。
僕ら少年達は、橋の上から船が通るのを見ていた。
月光仮面さながらに、ジャンプすれば、通過する船の上に降りられそうだった。
誰も飛び降りることはしなかったけれども。
運河は、すべて海につながっている血管のようで、
人々はその管を行き来して、生活をしていた。
それが、「横浜」という町なのだった。
運河の水面は、だから、海面で、潮の満ち欠けで大きく水位を変えた。
海水ならではのどろっとした濃度を感じさせる流れが、
朝夕の凪の時にはぴたっと動かなくなった。
坂下橋と呼ばれる橋のたもとには、製氷所があった。
僕らにとってそこは、魔法の世界のような場所だった。
母に頼まれて、ズタ袋を持って、冷蔵庫に入れる氷を買いに行く。
他のお使いとは違って、そこへのお使いは心をウキウキとさせた。
汗をかきかき100メートルほどの道を歩いてゆくと、
もうその場所からは、白い霧がもやっと煙さながらに立ち上っている。
大気が暑ければ暑いほど、その霧は濃くなるのだった。
おやじさんが、奥の冷凍庫のようなところから、
大きな氷のかたまりを出してくる。
というか、金具をガシッとひっかけて、ひきずるように滑らせてくる。
そして、注文された大きさに切る。
それは、まるでのこぎりそのもののような道具で、
実に、豪快に繊細にシュッシュッと切りさばいてゆく。
製氷所の人は、みんなよく働いていた。
おじさんもそうだったが、長いゴム靴をはいて、てきぱきと動いていた。
そんな鮮やかな労働の切れ味を見せられて、
少年はただ息をのむのだった。
氷は貴重な物で、それを作り出す工場はまさに、あの頃、最先端技術の場だったといっていいと思う。
家に帰って、氷は我が家の「冷蔵庫」に入れられる。
冷蔵庫は、まだ電気で冷やす機械ではなかった。
上段に大きな氷を入れて、その冷気で、小さな箱全体を冷やすのだった。
おやじが飲むキリン
ビールの瓶を、
母は製氷所から買ってきた氷の一部を欠き割ってボールに入れ、
冷蔵庫に置いていた。
大きな氷の固まりからの冷気とあいまって、
けっこう、「それなり」に冷えるのだった。
そのかわり、というか、当たり前というか、
何度も開けると、その冷蔵箱は、木陰程度の涼しさに堕落してしまう。
よくやったことだが、家に遊びにきた汗まみれの友達連中が、かわりばんこに、
「暑い暑い」といって、頭を冷蔵箱につっこむと、
かならず母にばれて、何度も開けたでしょう、と責められるのだった。
記憶があいまいなのだが、上段の氷は、必ず溶けて水になる、
その水はどうしたのだろう、冷蔵庫の中が水浸しにならなかっただろうか。
そんなことが、この文章を書きながら、心配(?)になった。
分かる方がいらっしゃったら、教えて頂けるとうれしいのだが。
よく冷えた
ビールを飲みながら、僕と将棋を楽しそうにしていた父。
それを団扇をあおぎながら静かに見ていた母。
そして、橋のたもとの製氷所。
みんなこの地上からは、消えてしまったが、
なつかしくあたたかく、心に残っている。
忘れ去られようとしているが、確かにそこにあった遠い夏。
便利になった現代の夏とくらべて、どちらが幸せの量が多かったかは、
微妙なような気がする。
本牧の夏、その夕空
- 2008/08/10(日) 19:05:30|
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昭和30年代。
まだ、僕が小学校に行くか、行かないかの頃のこと。
遠い夏の思い出をたどってみる。
横浜の下町の思い出と一緒に。
家は、路地に面していた。
路地は、アスファルトではなく土で、
木の塀の下に、母がミョウガとシソを零細に植えていた。
それは、時々、みそ汁の具として登場した。
夏休みが始まると、朝の
ラジオ体操が始まった。
行くと一回分のスタンプを押してもらえる。
休むと、その日はスタンプを押してもらえないので、空欄になる。
確か、皆勤すると何かもらえたような気がする。
そこの記憶があいまいだが、
とにかく、首からそのスタンプカードをぶらさげて、
家から50メートルくらいの広場に走っていくのであった。
母か、父か、が「いってらっしゃい」「いってきな」といつも声をかけてくれる。
行かないと、親に申し訳ないという気持ちもあったかもしれない。
広場には1本の大きな楠の木があり、
その前で、20人くらいの子供達が、15分ほど、ラジオにあわせて、
時計仕掛けの人形のように、体を動かす。
爽快というより、やたらと眠く、また、眠い目には、夏の太陽がやたらと眩しかった。
家に帰ると、母が朝食の準備をしている。
父は、新聞を悠然と広げている。
昔の父親というのは、食事時に、なんにもしなかった。
ほんとに、なんにも。
箸も皿も出さず、卵も割らず、ちゃぶ台の特等席に鎮座している。
なんにもしないから、エラいのだった。
俺が家族を支えているという存在感が、子供にも伝わってきて、
自然に母の手伝いをしたものだった。
「ねぇ、お豆腐、買ってきてくれる」と母が言う。
父は、毎朝、豆腐か、納豆を食べる人だった。
豆腐は、家を出て、アスファルトで舗装された道を渡って、
すぐの豆腐やに買いに行く。
カネのボールを渡されて、「一丁でいいからね」とか「今日は、ニ丁ね」とか、
言われたことを、反芻しながら、道を渡る。
豆腐は一丁が、10円か、15円だったような気がする。
そのお金を、ぎゅっと握りしめて、行く。
あの頃の少年には、「小銭」はとても、とても、大切なものだった。
豆腐やは、もう、朝の作業がすべて終わっていて、
おやじさんも、ゴム長姿で、にこやかに、椅子に座っている。
「ほい、おはよう、今日は、何丁?」
などといいながら、豆腐の浮いた「水槽」(というかどうかわからないが)から、
豆腐を左手ですくい出し、大きな包丁でざっくりと、切ってくれる。
さらに、それをボールに入れ、水槽の水を少し注いでくれる。
家までのわずかな距離を、ボールを両手で抱えながら、
僕は慎重に歩く。
白く柔らかな固体は、命あるもののように揺らぎながら、
その冷たさをボールを通して伝えた。
豆腐やさんには、さまざまな季節にお使いに行ったはずなのだが、
なぜか、夏の記憶に結びつけられている。
その理由は、あのボールを通して感じられた豆腐の冷たさゆえかもしれない。
本牧通りの、盛夏の緑
- 2008/07/31(木) 06:16:29|
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