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空が好き 横浜が好き

ずいぶん、人は空を見なくなった。でも、空は、いつも僕らの頭のうえにあって、僕らをみつめてる。横浜の空をメインに、いろいろと。心のなかの風景、忘れていませんか?

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社会のために自分を生きる

311を経験した社会は、どこへ行くんだろう。
たとえば、
働き方が大きく変わるような気がする。

1ヶ月ほど前、NPOの方と話したが、
正業で稼いだお金は、自分の最低の生活費にし、残りは社会のために使うのだそうだ。
人は最低レベルの生活では、がまんできなくて、
欲望を道しるべとして、モノを買う。
アップグレードを目指す。
それが、この資本主義世界の根源的なルール。
でも、彼はモノを買わない。
生きてゆければ、それで足りていて、
したがって、貯蓄もほとんどない。
NPO活動は、ときにその貯蓄も持ち出してゆく。
「幸せじゃないだろう、そんな生活」というなかれ。
彼は、貧乏ですけど、
充実しています、と誇らしげに言う。

自分消費から社会消費へ。
会社帰属から社会帰属へ。
僕らは、意識のなかで、少しずつ、シフトしていっている。
誰かの役に立っているという幸福。
それが、自分らしい生き方に結局はなるという発見。

僕も、娘達がほぼほぼ独立しつつあって、
社会のために何が出来るかを考え始めていた。
それまでは、とにかく、
家族のために120%のチカラですすんできた。

ちょうど、そんなとき、311の激震があった。
僕の中の、羅針盤のようなものが揺れ動いて、
違う方角を少しずつ、指し示すようになって来ている。

その方位を見極めながら、人生をすすんでゆこうと考えるようになった。
自分が何のために、生まれてきたかも、
問いながら。

ずいぶんと、ブログをさぼってしまった。
書けない日々がとても、長かった。
これからは、1週間に一度くらいのアップを目指して、
徒徒なるままに書こうと思う。

そんなわけで。
また。








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  1. 2011/07/31(日) 22:40:40|
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さて、2011年です

また、年が明けた。

会社に入って、まっしぐらに走ってきたが、
マラソンでいえば、メインスタジアムに差し掛かる道路にはいってきた感がある。
ゴールは見えないが、もうすぐそこにある感覚。

会社生活は、決して1位、2位といった勝負の場ではなく、
自らの人生の発露の場だと考えているが、
それでも、
走り終わったとき、拍手が観客席から生まれるようであってほしいと考えたりする。

今年の正月は、
娘ふたりと話した。
いつもは、ふたりとも家を出て暮らしているので、
会話は基本ないが、
正月とはありがたいもので、話しをするいい機会になった。
話せばそこは、父と娘、
そこそことポツポツと意志が通じ合って、
楽しかった。

2010年は、どういう年だったか、総括するのは難しいが、
11年は、大きな転機の年になるような気がする。
今までの人生とは違う、もうひとつの、といっていい人生を歩むための準備。
そんなことも考え、秘かに実行してゆきたいと思う。

ある女性から貸していただいた、小田和正の「クリスマスの約束2010」を見た。
12月24日の放送を、わざわざDVDにダビングしてもらった。
(感謝です)
少し元気になった。
もう63、4になると思うが、
まだ若いミュージシャンを束ねて、
純度の高い音楽を創造していた。
その純度は、はっきりいって、現在のポピュラーミュージックの最高レベルにあるものだった。
音楽への姿勢は、前向き以外の何ものでもなかった。

中高の先輩として、ハマッ子として、
常に大きな存在として、
意識し続けて来た人だが、
あらためて爽やかに教えてもらった気がした。

つきなみになるが、
今を必死になって生きることが、大切なのだと。

前回の、コピーライター物語は、私のブログとしては、かなり大きな反響があった。
泣きましたと、何人もの方から、うれしい反応があった。
また、そんな心を動かすブログを、今年も書いてみたい。

そんなわけで、あらためて。

よろしくおねがいします。
皆さん、いい年にしましょうね。


横浜で第2の人生を過ごすのも悪くないと思ったり
asa





  1. 2011/01/05(水) 00:38:46|
  2. 日記
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  4. | コメント:1

彼女との「約束」 コピーライター物語⑨

どうしようもない暗闇の中で、
点にも満たない「灯り」を見つけ、導かれながら、
やがて、暗闇から「光」にあふれた世界に出る。

その光は、僕にとって、コピーライターという職業であった。
そして、その灯りについて。
話しておかなければいけないと思う。

それは、ある人との「約束」から始まっていた。

大学2年のことになる。
もう、30年以上も前の話。
ある女性と知り合った。
同じ学年で、N女子大に通っていた。

友達の紹介で初めて会った日、
彼女の印象は、とても白かった。
顔は透き通るようだったし、
確か、白いブラウスを着ていたようにも思う。
春の日射しの中で、それは、とてもまぶしかった。
混じりけのないピュアな印象、
すくっとたっている強さと可憐さ、
ハーフのような容貌。
そんなことが、一瞬に僕に押し寄せ、
立ち止まらせ、端麗な「白」のイメージになったのかもしれない。

ほとんど何も話せず、帰り際の
渋谷駅の山手線の改札口で、
「また、会ってくれますか」、と聞くと、
意外な素直さで、赤く整った口びるから、
「ええ」と言葉がこぼれた。
人ごみが溢れ出す夕暮れ時の改札で、
僕と彼女は、初めての約束をしたのだった。

季節は、初夏に近づいていた。
こんど、神宮での六大学野球に誘ってみようと思った。
地方出身の彼女は、大学の近くの寮に入っていた。
(その大学は、目白にあった)
今では考えらないことかもしれないが、
その寮には、電話は2つしかなく、
僕が彼女の名前を告げると、
寮の人が、「ちょっと待って下さい」と言って、彼女を呼んでくるのだった。
連絡手段は、ただ、それだけ。
それだけだった。
その電話が、ふたりの気持ちを必死につなぐ、ただひとつの「希望と未来」だった。

初めて電話した日、彼女はいた。
土曜の朝8時ころだったと思う。
電話まで、小走りで来たのかもしれない、
少し、息が弾んでいた。
きょう、スケジュールが何もなければ、神宮に野球を見に行かないか、ということを
緊張でがんじがらめになりながら、
やっと、伝えた。
電話の向こうから、「はい」と返って来たが、その声もやっとのことで発せられたようだった。
僕が、続けて何かを話そうとしたら、
「電話は手短にっていわれているんです。みんな、の電話なんです」
と遮られた。
待ち合わせの場所をそそくさと告げ終わると、
「ごめんなさい、話をさえぎっちゃって。会えば、きっと、たくさん話せます」。
その声は、押し殺したように静かだったが、喜びに弾んでいるように思われた。

空には、もう夏っぽい雲が浮かんでいた。
素晴らしい青空と、だだっぴろい緑のグランドが、ふたりの目の前にあった。
客もまばらで、スタンドにふたりですわっていると
そんな広がる風景のなかで、ぽつんとふたりだけ、
切り離されたような気がするのだった。
そのふたりだけの孤独は、ふたりの距離をぐっと縮めてくれた。
時々、ぽつっと話をかわしながら、僕らは、一球一球に視線を動かし、
ひいきの大学の選手が、ヒットを打つと、立ち上がって、拍手をした。
汗ばみながら、彼女からいい匂いがして、爽やかな風が通り過ぎると、
長い髪が僕の肩まで届いた。
そして、彼女は僕のいちばん大事な人になった。

いつも、渋谷で、会った。
センター街で食事をし、道玄坂で映画を見、手をつなぎながら代々木公園まで歩いた。
映画館の暗がりの中でも、
彼女の顔は白く、笑うとキラキラと夢のように輝いた。
6月の日射しを浴びて、待ち合わせ場所へ駈けてくる姿は、切ないほど美しかった。
お好み焼き屋に行くと、煙をもうもうと浴びながら、
きっとアナタは何もできないから、ワタシがやるっと、言って一生懸命、コテを動かしていた。
パルコの1階で、学生には高すぎるコーヒー一杯を飲みながら、
いつまでも、飽きることなく話し続け、お互いの目を見つめあった。

門限10時の彼女を送るために、9時ちょっと過ぎの駅で
さよならを告げると、やがて、彼女は、離れたくないと泣くようになった。
もちろん、人目につかないように、ひっそりと。


あるときから、気がつき始めていたのだが、
彼女は、「何か」を隠していた。
1学期が終わりに近づく、7月に入ってすぐの
デートの日に、喫茶店で押し黙り、数時間のあいだ、
とうとう一言もしゃべらなかった。
下をうつむいたまま、じっとカラダをこわばらせながら。
ただの一言も!

何が起こっているのだろうか。

そして、2週間くらい、連絡がとれない日が続いた。
僕は、彼女がじぶんのことを突然、嫌いになったのか、
いや、そんなはずはないとふさぎこみ、
他に好きな人がいたんじゃないか、と
疑心暗鬼になり、
心は、くだけそうになった。

ついに、それが分かる日がきた。
彼女が、打ち明けた。

大学が終わって、8月のはじめころから、イギリスへ留学することになっている。
期間は1年半くらいになる。
かろうじて、そう言った。

僕は、ただ呆然としてしまって、今まで、1週間に、2度3度、会っていた彼女と、
1年半も会えない、その感覚がつかめなかった。
どこか知らない空間に放り出されてしまって、恐怖にも似た混沌が押し寄せ、
何もつかめないのだった。
彼女を愛する気持ちがどこへ行くのか、
愛する気持ちをどこへ持って行っていけばいいのか。

やめることはできないのか、と僕は言った。
払ってしまった留学費は、僕がアルバイトして払うと、言った。
だから、お願いだから、僕の近くにいて。
僕の近くに、いつまでも、いつまでも。

しばらく、会えなかったのは、故郷に帰って、親を説得していたからです。
だめでした。おまえが、小さい時から、イギリスへ留学したい夢を持っていたから、
お父さんもがんばれたんだ、お母さんだってきっとそうだ、今、それをやめるなんて、
絶対に、ありえない。いったい、どういうことなのか!!
と言われました。もう行くしかないんです。

そのことが分かっていて、僕とつきあったのか、と僕は言った。
ええ、そうです。こんなに好きになるなんてわからなかったから・・・
と彼女は肩をふるわせながら答えた。


留学へ出発する日は、一週間後にせまっていた。
一度、故郷へ戻っていた彼女はまた東京にいて、会うことにしていた。
久しぶりだった。
当時、長期留学するというのは、難事業で、大変なことだった。
通信手段も、移動手段も、大学の送り出し・受け入れ体制も、かぼそいものだった。
特に、遠距離のふたりをつなぐのは、膨大にお金がかかる国際電話か、
出して10日後にかろうじて届く手紙しかなかったのだ。

「忙しいの?」
「ええ、準備がいろいろあって・・・」
「楽しみ?」
「いまでも、行きたくないです・・・」
会話は、始めはとぎれとぎれだったけれど、やがて、ふたりは恋人に戻っていった。
時計を見ると、もう9時を回ろうとしていた。
「そろそろ、門限だね」
「きょうは、いいんです。最後になるかもしれないから」
僕は、怒るように言った。
「最後になんかならないよ。キミが帰ってくるまで待っている。約束する」
「ええ、待っていて下さい。ホントに待てるのなら待ってて下さい」
「手紙を出すよ」
「ええ、手紙をください。淋しくて死ぬかもしれないから」

その夜、僕は渋谷から目白まで、彼女をタクシーで送った。
通り過ぎる街の灯りが、彼女の顔に映り、
いつにもまして、永遠のように美しかった。
ふたりは、ほとんど話さなかったと思う。
やがて、タクシーは、寮の前に着き、
降りる前に、手をつなぎあい、見つめあった。
「元気でいてください」
「キミも、元気で」
寮の門から玄関まで、かなり長い暗い道があって、
僕はタクシーの中から彼女の後ろ姿を見ていた。
一度だけ、振り向いて、手を振った。
それは、ほとんど玄関に近い場所で、
入り口の照明で彼女は、ふわっと小さなシルエットになって、やがて消えていった。


僕は、すぐに手紙を書いた。
彼女がまだ、東京にいる間に読んでもらえるようにと、
僕の思い、彼女への激励、これからのふたりのことをいっぱいにつめこんで、
心のありったけを書いて、投函した。

彼女からの返信は、3週間後くらいに届いた。
ロンドンからだった。
「やっと、引っ越しが終わり、大学へも通い始めています」
そんな近況の後、こう書かれてあった。

・・・・手紙は、ちょうどワタシが旅行鞄を持って、寮を出るときに、届きました。
直感でわかりました、アナタからの手紙だということが。
ああ、間に合ったんだなって。奇跡だなって。すごいタイミングだなって。
・・・・・・・
そのままポケットに入れて、持ってゆきました。空港で読もうと思ったんですけど、
読んだらもう日本から出たくなくなったら困ると思って。
飛行機が北極圏を飛んでいるころに、封を開けました。
太陽の光がキラキラと輝いていて、白い広大な氷の世界があって、
そんな地球のパノラマの中で読みました。
もう、涙がとまらなくなってしまって・・・
こんなに激しく泣いてしまうなんて、初めてだと思いました。
あまり長時間泣いていたからでしょう。
スチュワーデスさんが、なにか、ございましたか、と声をかけてくれました。
「一番好きな人の手紙を読んでました」というと、
「いつまでも大切にしてくださいね」と答えてくれました。
・・・・・・・
いつかデートしたときに、文章を書く人生を送りたいとおっしゃっていましたよね。
ぜひ、やってください。そして、人の心を幸せにして下さい。
その記念すべき第一号が、この手紙で、一番初めの読者がワタシ。
ということでいいですよね。
約束してください。文章を書く人になること。
・・・・・・・・・
そして、次のお手紙待っています。淋しくて夜がつらいとき、アナタの手紙を読みながら
アナタがそばにいると感じて、過ごしたいと思います。
SEE YOU AGAIN
・・・・

その約束を、僕は果たした。
広告会社に入り、コピーライターになった。
自然にそうなったのではなく、
自ら考え、動き、そうなった。
そして、たくさんの言葉を書き、社会に出し続けて来た。
コピーライターとしては、超一流ではなかったが、
本のコラムなど、自分の言葉をずいぶんと書かせてもらい、読者も得てきた。
「約束」が果たせた人生だったことに、今は、誇りを感じている。


会社に入り、7、8年してから、
フランス・ロケがあり、飛行機に乗った。
当時は、まだソ連は西側諸国とは国交がなく、
ヨーロッパ便の多くは、ソ連領土内を通過できず、
北極圏上空を飛ぶのだった。
一眠りしたあと、窓側のシェードをあけると、いきなり光の豊饒が流れ込んで来た。
そして、地上には、果てしのない目に痛いほどの白い氷の世界があった。

そのとき、脳に射込むように、彼女のことが思い出された。
今、いるこの地球上の同じ場所で、
彼女は、僕の手紙を読んだのだ。
あのとき、ふたりのあいだをつないでいた、言葉の数々を。
僕は、彼女の顔を思い出した。
笑っていた。すねていた。歌っていた。夢見ていた。そして、泣いていた。
どれもこれも、輝いて輝いて、きのうのことのように思い出された。
文章を書く商売をやってるよ!ありがとう!と窓の外に叫びたかった。

そして、いつまでもキミを待っているという、
もうひとつの「約束」を果たせなかったことが、
僕の胸を激しい痛恨ととなって突きあげて、僕は泣いた。


30年以上経った今でも、
タクシーで送っていった夜、寮の門から玄関までを歩いてゆく彼女の後ろ姿を忘れることができない。
そして、今思う。
あのとき、「最後の夜」と言った彼女には、すべてがわかっていたのではないか。
愛し合っていたふたりの行く先と、
僕がやがて物書きになることさえも。
5月に会って、8月にもう会えなくなった、
たった、ひと夏の人が、僕の人生を大きく変えたことの不思議さをつくづくと思う。

「その記念すべき第一号が、この手紙で、一番初めの読者がワタシ。」
確かに、そうだったのだ。



ひさしぶりの再開で、大・長文になってしまいました。ご容赦を。
写真は、30数年前、彼女も見たかもしれない、アイルランドの海岸風景です。寂寥としますね

アイルランド
  1. 2010/11/28(日) 15:10:49|
  2. 日記
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眞木準さんのこと 僕のコピーライター物語8

コピーライターの机には、
原稿用紙と筆記用具と灰皿があった。

土門拳が、昭和の文士達を撮った写真集があるが、
そこにも、また原稿用紙と万年筆があり、多くは煙草をくゆらせているポーズがあった。

当時、一番近い職業は、
間違いなく、「文筆業」であった。

クライアントのオーダーを受けて、広告するのだから、
広告はクライアントのものであり、
制作者は、代弁者であり、黒子であるのだが、
殆どの場合、制作者は、
広告に「自分そのもの」を刻み付けようとしていた。

そこには、科学もなく、論理もなく、ただ生活者に必死に、企業の思いを伝えたいと
のたうちながら、言葉をひねり出していた。
コピーライティングの語源である、「著述の個人権利」そのままに、
広告という場で「作家活動」をしていたように思う。

右手にペンか鉛筆かマーカーを持ちながら、
左手には、煙草を持ち、
原稿用紙に、おのれの字をしたためてゆく。
途中まで書いて、うまく書けてないことに気づき、
「くそっ!」と言わないまでもそんな気合いで、
その原稿用紙を破って、
ゴミ箱へ放り投げる。

ゴミ箱はやがて、いっぱいになり、
灰皿もいっぱいになる。 
毎日がそんなことの繰り返しだった。

誰も手伝ってくれなかった。
そして、上手に書ける方法論もなかった。
孤独であった。
深夜、明日の朝の打ち合わせに備えて、
一生懸命、コピーを書いているのだが、
ピントはずれのゴミだらけで、
もがいて、ふと、制作のフロアーを見てみると、
数名のデザイナーしか残っていない。
気がつけば、
もう、深夜2時を回ろうとしていて、
窓外の有楽町駅は、すべて漆黒の闇の中に、沈み込んでいる。

どうしたら、うまく書けるのか、そんな悩みでふらふらと歩きながら、
眞木準さんのデスクまで行ってみようと思ったことがある。

あのころ、若くて、キラ星のように輝くコピーライターたちが、
僕の会社には数多くいた。
眞木準さんは、そのなかの、とりわけの「キラキラ」であり、
おそらく30歳になるかならないかの頃だったが、
広告業界のスターにもう、なっていて、
雑誌などのマスコミにその端正な顔がよく出ていた。

僕の入社した年には、
「でっかいどお。北海道」(ANA)
の、名作コピーを生み出していた。
北海道に観光客を呼び込む、誘い文句で、
すべての楽しみが、本土とはスケールが違うということを、
「だじゃれ」を使って、書いた。
「だじゃれ」は、やがて、眞木さんの「必殺お家芸」になるのだが、
誰もがマネできるようで、
結局、誰もマネできなかった。
「一代の芸」であった。

眞木さんのいるビルは、僕のいるビルの1つ隣で、
そこまで、数回、出かけて行った。
(まだ僕は実物の眞木さんを見たことがなかったのだ)

なぜだか、よく覚えていないが、
「若き名人」の姿を見たり、その机をのぞいたり、ひょっとすると声をかけられたり、
そんなことを経験すれば、自分もその才能の「おこぼれ」をもらえるのではないか、と
思っていたのだろう。

しかし、眞木さんは、席のまわりには、いなかった。
いつも、いなかった。

ある日、近くのビルの喫茶店に入った時、
奥の席に、眞木さんがいるのを発見した。
原稿用紙に、集中して、前のめりになるように、
書いていた。
脇目もふらず、という感じがあって、
人を寄せ付けないものがあった。

それから、何度か、眞木さんをその喫茶店の、その奥の席に、発見した。
聞いた所によれば、そこが、彼の席であり、働き場であり、聖域なのであった。

才能がありながらも、努力をつきつめる、眞木さんの姿は、声をかけられるレベルでなく
鬼気迫るものがあった。

去年、急逝した眞木さんの「お別れ会」に訪れ、
素晴らしい作品を見させてもらいながら、
あの喫茶店の奥の映像を30年ぶりに思い出した。

それは、やはり孤独な作家の姿そのものであった。




やがて、僕は眞木さんに大変、お世話になることになる。
いつも、パーティなどで会うと、やさしい声をかけてくれた。
いきなりの訃報を聞いた時は、ただ、呆然としてしまった。
改めて、合掌。

yuuyake
  1. 2010/09/05(日) 21:20:16|
  2. 日記
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デザイナーと会った夏。僕のコピーライター物語7

僕は、生まれて初めて、デザイナーと呼ばれる人たちと会った。
正しく言うと、席を並べ、一緒に会社生活を始めたのだ。
その記念の年こそが、僕の新人の年であった。

デザイナーは、同じ人類ではあるが、明らかに人種は異なっていた。
そのことには、すぐに気がついた。

文科系・理科系は、大体、試験の出来で決まる。
数学や物理の点がいい人は、
じゃぁ大学は工学部で、将来は建設会社へ就職しよう、とか。
数学と生物の点がいい人は、
農学部で、農水省に入って研究、とか。
文系もおおまかには、そういうことになる。
ただし、たまに英語の点が抜群によかったりすると、
迷ってしまう。
理科系志望が、文系志望になるなんてことは、日常茶飯事で、
要するに、そうクリアカットには行かず、
ある意味で、いい加減なことなのだ。
たとえ、将来の自分を決める決定でも。
そのことは別に非難されることでもなく、よくあること、なのだ。

しかし、僕は、大学のとき、ついぞ遭遇していない、
アート系の人間たちと深くつきあうようになった。
それは、将来へのいい加減さを持たずに10代のなかばから、
ずっと懸命に生きて来た人たちであった。

まず、彼らは道具を持っていた。
三角定規、プラスチック定規、金尺と呼ばれる鉄の定規、
ピンセット、カッター、4B、5Bの鉛筆、
ダーマトと呼称されていた剥けてゆける赤鉛筆、
からす口、スプレー糊、それをはがす三角形の容器に入ったシンナー、
写真を見る時のライトボックス、
写植見本帳などなど、などなど。

それは、バリバリの文系野郎から見れば、
まさに、ワンダーランドの住人であり、
人類が道具を持つことで進化をしたのならば、
まさに、デザイナーという人種は、
人類の最先端にいるように思われたのだった。

「徹底的にこだわらないと、気持ちが悪いんですよ」。
同じユニットにいた、いつも赤くて優しい顔のAD(アートディレクター)、
Sさんが、僕によくそう言った。

青春の前半に、アートやデザインを志すと、
何をしなければならないか。
それは、膨大で、ストイックで、クレージーで、ひたすら没俄な、
「デッサン」の勉強なのであった。
これは、明らかに「修行」の一種であり、
血の出るような訓練で、脇目もふらずに「道」をゆくようなものであった。

青春のまっただなかで、ちんたらと毎日を過ごし、やれ女の子だ、やれパチンコだ、
やれサークルだ、とうつつを抜かし、
左脳右脳とも、ほとんど休止状態になっている学生らとは、
まるで別次元で、戦いをしている、してきた。
それが、デザイナーなのであった。

カタチから覚えてゆく。
それを身体に刻み込ませる、五感に染み渡らせる。
僕らが教育されて来たやり方とは違う、
頭でっかちの対極にいる。
このことにより、僕には、彼らから発せられるオーラが、
うらやましく、どこか、惹かれたのだった。

彼らは、いつも手を使って、動いていた。
「作業」をしていた。
職人のように、細部にこだわり、労苦をいとわず、誇りを糧とし、生きていた。
「技術」があった。

毎日、ミリ単位の作業を、カッターとピンセットで、
黙々としていたSさんのアシスタントのTさんは、
夜、コピーを書いている僕に、
「こんど、飲みに行こうよ」と時々、声をかけてくれた。
「すいません、飲めないんです」と申し訳なく謝ると、
「そう。じゃ、早く終わる日はご飯だけでも行こうよ」と誘ってくれた。

そんな会話が何度かあって、
僕が早く帰れそうな時に、
Tさんの席をのぞくと、
いつもの姿勢で、カッターとピンセットで、シャカシャカと、
「職人中」なのだった。

「お先に失礼します」と言うと、
ほとんど頭髪のないおでこを汗で光らせながら、
ただただ、何の邪念もない笑顔を返してくれるのだった。

今でも、その笑顔は、デザイナーだから、できた笑顔のような気がしてならない。
なぜだろうか、と思う。



「職人」と「名人」が、僕らのまわりにはたくさん、光っていた
mati
  1. 2010/08/29(日) 20:16:10|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3
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プロフィール

KUROちゃん

Author:KUROちゃん
横浜生まれの横浜育ち。生まれて以来、根岸・本牧に暮らしてる。近くのS学院に通っていた。60年代、70年代のロックには精通している(つもり)。コピーライターでもある。娘二人。愛犬Rとの会話が趣味。本名、黒澤晃。

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